本宿用水は、深良用水の67年前に設置しましたが、ともに手掘りの隧道で水を引いています。
深良用水の隧道掘削には本宿用水をモデルとしたと言われています。
深良村の名主・大場源之丞は、水不足で悩む深良村に芦ノ湖の水を引くことを考え、新田開発の経験がある江戸の商人の友野与右衛門に協力を求め、長浜半兵衛・尼崎嘉右衛門・浅井次郎兵衛・等を請負人として、小田原藩及び沼津藩の許可の下に、寛文6年(1666)から寛文10年(1670)にかけて掘抜き工事を実施して深良用水を完成させました。
これにより、御殿場市・裾野市・長泉町・清水町におよぶ広範囲の農地を潤しています。
郷土史家であったタカクラ・テル氏は、本宿用水について、著書・箱根用水で「この用水はハコネ用水の造られたすぐ後で、同じ用水の関係者たちの手で造られたものにちがいない」と述べています。
その後、髙田家文書が発見され、本宿用水は深良用水の竣工の67年前であったことが判り、多くの郷土史研究家等によって本宿用水と深良用水の関係が調査されて、ともに甲州流水利法の技術が採用されていると示されています。
深良用水では、元締めとなった友野与右衛門の祖が武田家家臣であったことや、友野与右衛門が隧道掘削に金ほり(鉱夫)を雇入れた(箱根用水史 佐藤隆)こと、また本宿用水の隧道構造に酷似していることから隧道掘削には甲州流水利法が採用されていたことが判ります。
- いづれも隧道途中に換気口が掘られている
- 隧道断面の形状が酷似している
- いずれも”蜘蛛巣間切”と呼ばれるノミによる掘削跡がみられる
そのため、大場源之亟や友野与右衛門等は深良用水の計画にあたり、本宿用水の隧道を調査していたことが想定できます。