本宿村は黄瀬川の扇状地にあり、砂礫層の地質と黄瀬川との段丘差が大きいため、農業用水に恵まれず、僅かな水を引いた小さな田圃とアワやヒエなどの雑穀に頼る貧しい生活を強いられてきました。
江戸幕府が始まり周辺の村々が平穏となると、幕府の奨励もあって新田開発に必要な用水の確保が拡大していきました。
本宿村も「水を確保し少しでも豊かな村にしたい」との思いが強くなっていきました。
名主・髙田久左エ門は、黄瀬川の水を隧道掘削により、本宿村に引くことを発案し、領主・天野康景公に嘆願しました。
天野康景公は現地を見分し、資金や人足を本宿村で負担することを条件に許可を下しました。
このことは、寛文2年(1662)に野村代官に宛てた本宿用水の維持管理に関する上申書(髙田家文書)が発見されたことにより明確となりました。
【長泉町本宿 髙田家文書】
【原文】
御訴訟申上候事
一、本宿村日損場二而御座候二付、六拾年以前の兔の年、天野三兵様御知行所の時、穴セき御普請儀、被仰付被下候様二と御訴訟申上候得者、御普請場御見分の上、人足被仰付被下被へ共、他所の人足穴セきへはいり掘申儀不能成候、殊二油たいまつ入用二御座候二付、所の人足二而堀候へと被仰付、則セき免として水張の内の荒間拾石引、御証文被下候得共、悪地の場二而御座候得者、近年まで作毛付仕不申候二付、穴セき破損致御普請仕候時ハ御見分の上、人足御扶持方申請候、然共五拾六年以前より右の荒間、大方開作し仕付中候間、少しつ々ハ年貢をも被仰付可候下候、爲其御訴訟申上候 以上
寛文弐年 寅ノ九月
【解読】
本宿村は水に恵まれない所なので、60年以前の天野三郎兵衛康景さまが領主であった時に、隧道を掘って用水を引くことをお願いしました。天野さまは現地を見分され、「他所の者を入れずに村人足だけで隧道を掘ること。隧道を掘るには油や松明が必要となるので、すべて村民の力で掘ること」と指示され許可をいただきました。また、用水の管理費として10石分の無年貢地を与えるとの証文を頂きました・・・・。
と記されています。
本宿用水は慶長8年(1603)3月に完成しました。
村人は大喜びでした。少しづつ新田開発も進み、本宿村にも豊かさが訪れました。
領主・天野康景公からは「本宿村の新井堰に、10石分の無年貢地を与えるので用水の維持管理を確実に行いなさい」との手形を下さいました。
【長泉町 髙田家文書】
黄瀬川の鮎壷の滝上流から500m余の隧道(トンネル)を村人足のみで掘るために、甲州の武田家に伝わる【甲州流水利法】の技術を導入しました。
本宿村名主の髙田久左衛門は親族の玉川村髙田家に、武田家譜代家老の甘利家から長沢村に移住した「甘利弾正」の次男(甘利主水)が婿入りしたことから、この髙田主水(たかだもんど)に本宿村に出作地を与え、本宿村の関係者として武田家に伝わる鉱山技術や水利技術である甲州流水利法を指導させたと伝わっています
隧道掘削のための測量は、隧道入口から出口までを一直線に山伝いに縄を張り、方向と勾配を求め、入口と出口の両側から掘り進めました。隧道内では行燈(あんどん)を並べて、掘削する方向や勾配を定めて手掘りによる掘削を進めていきました。また、地表に向けて複数個所の換気口を掘るとともに、断面は崩れにくい形状となっています。
なお、隧道掘削にはノミによる手掘工法の蜘蛛巣間切(くものすけんぎり)が行われた跡が残り、甲州流水利法の技術を採用していることが分かります。
