水論争が勃発

牧堰15ヵ村との水論争

牧堰用水は、本宿用水が完成した1年前の慶長7年(1602)に沼津藩主大久保忠佐が家臣関久左衛門に指示(領主による普請)して完成しました。

この時期の牧堰は8ヵ村へ配水していましたが、寛文3年(1663)には13ヵ村に、元禄10年(1697)には15ヵ村に拡大しています。

江戸時代となって黄瀬川流域の多くの村で新田開発が進められ黄瀬川の水を引くようになったことから、黄瀬川の下流には全く水が流れてこない状況となりました。

 

牧堰は本宿用水新井堰の約300m上流にあり、元禄10年(1697)に石堰から水漏れのない籠堰を築いたことから、本宿村はこれを壊すという実力行使を行い、牧堰15ヵ村も更に丈夫な堰を造り番人を置く措置をとりました。

そのため、牧堰15ヵ村と本宿村では水論争は続き、地元代官への訴訟から江戸奉行所への訴訟に発展し、享保4年(1719)に江戸奉行所から裁決が出され、22年に及んだ水論争は落着しました。


下土狩村(蛇面田)との水論争

下土狩村(蛇面田)との水論争

下土狩村の蛇面田は小規模な水田でしたが、本宿用水の水門から隧道(トンネル)に至るまでの間にあり、本宿用水から取水していました。

 

享保20年(1735)に起きた黄瀬川の増水で本宿用水の水門等が破損し、領主に補助を願い出て水路改修を行いましたが、蛇面田への水が不足したことから明和3年(1766)本宿村と下土狩村鮎壷の間で激しい水論争が行われました。

双方の村では小田原藩の代官あてに訴訟を起こし、決着がつかず江戸奉行所まで訴訟を起こしました。

 

左の絵図には本宿用水取入れ口付近に「蛇面田」の記載があります。


箱根用水組合への加盟と脱退

本宿村は本宿用水を設置したものの、黄瀬川の上流地域で取水されてしまうので必要とする用水確保ができませんでした。

 

そこで本宿村は深良用水の設置に大きく期待し、箱根用水組合に加盟しました。

 

しかし、友野与右ヱ門等元締めの誤算もあり下郷の村には十分な配水がされず、負担金の支払いに関し水論争が発生し、沼津藩は元締めの管理から直接管理としました。

 

黄瀬川下流域のため用水確保が出来なくなった牧堰15ヶ村は元禄元年(1688)に、本宿村は宝永4年(1707)に箱根用水組合を脱退しました。

 

本宿村は引き続き水不足に悩まされました。