天野康景公は慶長6年(1601)に富士郡と駿東郡のうちの1万石と別に2万石を受け、興国寺城主(本宿村領主)となりました。
農政にも力を入れ、本宿村の用水事情に理解を示されました。
本宿村に本宿用水の建設を許可し、慶長8年(1603)に完成した時には本宿用水の管理費として10石分の無年貢地を与えていただきました。
本宿用水への手形【本宿 髙田家文書】
天野康景公は「本宿村の雲龍時に弘法大師作の石仏、大日如来と不動尊を寄進するので末代までお祀りすること」と、手形を添えて石仏2体を寄進されました。
石仏寄進状【本宿 髙田家文書】
本宿雲龍寺の大日如来像と不動尊像
天野康景公は小田原征伐が終わった年に下田方面にて暴徒が起きたので本田正信と共にこの鎮圧に臨みました(沼津市 星屋家文書による)
天野康景公は途中で賊徒に襲われ、本宿村の雲龍寺に匿われたお礼として、この石仏2体を寄進したと本宿に伝わっています(史実であるかは不明)
この2体の石仏はだいぶ損傷していますが、過去の大地震で本堂が倒壊したことがあり、その時破損したとのことです。
慶長11年(1607)に、天野康景が城普請のために貯えていた竹木を窃盗する者があり、見張り役を配置しました。再び、窃盗する者が現れたので見張り役はこの者たちを殺傷しました。
しかし、この窃盗を図った者たちは天領の領民で、代官所へ訴え出たことから、本田正純が康景を訪ねて見張り役の者を引渡すよう求めましたが、康景はこれに激怒し、慶長12年3月9日(1607)興国寺城を放棄して子の康宗ら一族とともに出奔したため改易に処せられました。
その後は、小田原の西念寺に入り、慶長18年(1603年)2月24日に同地で死去しました。
子供の康宗は、寛永5年(1628)に赦免され、1,000石を知行する中堅旗本として天野家が存続することを許されました。
(Wikipedia抜粋)
西念寺(小田原)の天野康景墓地
